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障がいが治る薬 [障害者の話し]

もし、障がいが治る薬があったら? 

昨日のNHKバリバラで
来週金曜日に放送予定のドラマの1シーンをやっていました。

障がいが治る薬があったら
欲しい!! と思う障がい者や家族はきっとたくさんいるでしょう。

"障がいが治る薬"っていう、この漠然とした感じがまた
個々が自分の障がいをイメージ出来て、、、、リアルな薬名じゃなくて[あせあせ(飛び散る汗)]
だから、そんな薬があったらなぁ〜と思わせてしまうのかもしれませんね。

どうして、障がい者やその家族は
障がいが治ったら良いなぁ〜と思うのでしょう。

重い病気を併発している障がいの場合は
一般的に、みんなが重い病気にかかった時に
"病気を治したい!!"と思うのと同じだと思います。

では、その障がいに
命を脅かすような病気がない場合でも
障がいが治ったらなぁ〜と思うのはなぜでしょう。

そのひとつに
社会に居て、うまく生きて行けないもどかしさを
当事者がとても深く感じている事があると思います。
逆にいうと
社会が無意識に与えている障がい者差別が
当事者にとっては、どれほどの辛さがあるかを
社会が、心と頭でちゃんと認識していないから
障がいのある人は生きにくいのだと思います。

障がいが治る薬は
世の中の価値観を変える薬なんじゃないでしょうか。

二十年以上
色々な障がい者、そしてその家族と関わってきました。
息子が障がい者だからこそ、深く関われたコミュニティーです。
これらの経験は私の価値観を大きく広げてくれました。
私はこの人生を歩めて本当に良かったと思います。

今年は
親戚からの"絶縁メール"を受けて
その理由が語られる中
いっぱい嘘をついてまで
賢治の存在
それと関わりたくないという気持に

"この人たちにとって 人としての 心って? 情って?"

それを探しましたが見つけられず
折り合いをつけることも出来ず
私は
自分の息子を負のブランドのように名指しされ
優香の仕事を非難され(障がいのある弟を隠さず、人様に私生活をさらしているという主旨)
そして
年老いた親を悲しませてしまい
私はどこまで償うべきなのか
罪悪感で
大きなダメージを受けてしまった年でした。

悲しかったです。
高齢者を敬うまではいかなくても
せめて
自分のために、高齢の祖父母が北海道から東京へ来てくれたこと
それだけでも
「ありがとう」なのではないかと思いました。
たとえ自分なりにどんな言い訳があっても
高齢の祖父母を無下に扱う理由は無い
と私は思います。

きっと
何年経っても、この悲しみは消えないでしょう。

私たちを排除したこの人たちにも、同じように
自分がしたことを
何年経っても、忘れないで欲しいと思います。

それは
ちいさな社会の自分たちひとりひとりが
当たり前に他に与えている様々な差別が
差別を受ける当事者にとって、どれほどの辛さがあるかを
認識して、自分の行為を自覚しなければ
社会は 何も 変わらないからです。

互いの違いを互いの個性として尊重すると
人は皆、生きやすくなります。

障がい者は世の中において
負のブランドではありません。

たとえ高級ブランドを身にまとっていても
自身の心をブランドで飾ることはできません。
素の心が美しい人には
負のブランド(のように思えるもの)も、高級ブランドも関係ないのです。

社会の差別。
それを受けた悲しみだけが、ただ残るのではなく
こんな出来事ひとつひとつを伝えることで
何かを社会に提起できているのなら

いつか悲しみは無くなり
社会には
差別観を自覚して、人としての思いやりを大切にした人間愛があらわれるのだと

そう願っています。

バリバラ その2 [障害者の話し]

前の日記でご紹介した
NHK.Eテレの「バリバラ」
先日
「出生前検査について考える」パート2が放送されました。

パート1と同じく、ダウン症のイケメン、あべけん太くんが
大阪大学へ行って、学生たちを前に疑問を投げかけて意見を聞きました。

   去年四月に始まった検査で判定されるものにダウン症が含まれています。
   ただし、これは胎児がダウン症であると確定されるものではなく
   さらに羊水検査などの検査をして
   はじめて確定出来るものです。

この出生前検査がはじまってたった半年で
確定した妊婦の97%が中絶しています。

97%はすごい数字です。

こういう現実があると、けん太くんが疑問を持つ気持が理解しやすいと思います。
「ダウン症が社会から外されるのはイヤだな。どうして検査をするのかな?」


「この検査はダウン症の人たちへの差別ではありませんか?」と
けん太くんは学生達に問いかけます。

学生達の意見を聞いていて、私が感じたのは

「これは差別ではありませんか?」の問いなのに
無意識の差別観の上での意見が多かったことです。
でも
本人達はその、差別観に気が付いていないのです。

「親亡き後、ダウン症の子を残すことを考えると、現実的に無理と判断するために、出生前検査は必要。」

ダウン症(障がいのある子)は、親がいなければ生きられないのでしょうか? 

「どこにでも差別はある。(差別を)消す事は出来ない。ダウン症を中絶するのは、差別ではなく、親の権限」

完全に差別ありきで語っていますね。

「ダウン症の子が親から虐待されたりしている。健常の他のきょうだいには愛情を注げても、ダウン症の子は愛せないなど、そういう悲し子が生まれないためにこの検査があるんじゃないか」

それは健常の子でも、日々、虐待のニュースを聞くではありませんか。ダウン症の子を持つ親が、とても愛情を持って育てている現実はたくさんあるし、なぜ? 障がいがある子は悲しい子になるとイメージしてしまうのかなぁ?

また、けん太くんが
「この検査を導入するにあたり、自分たちダウン症当事者に何も意見を聞いてはいない事をどう思うか?」
と、問いかけると

「ダウン症の当事者が、世の中に自分と同じダウン症の子が生まれてきてほしいという意見を持っていても、その意見が妥当なものかどうか、社会が判断出来ないので、意見として聞き入れられない」

障がい者という少数派の意見を社会は聞かない。マイナスイメージのマイノリティーは社会的弱者だと、前に私が記事に書いたことは、やはり一般社会で、当たり前に多くの人が感じている事なのですね。これを「差別」以外に何というのでしょう?

またけん太くんは
「ダウン症の人とそうではない人に本質的な違いはありますか?」と問いました。
けん太くんは、何が違うのかわからない、違いは無いという意見です。

ここでも
障がい者に対する先入観を持っての意見が学生の口からでました。

「たとえば今からサッカーをすると言ったら、私たちは出来るけれど、ダウン症の親は心配してさせられない。先生や周りからの抑えがかかる。それが私たちとダウン症の違い」

小中学校を普通学級で学んだ、けん太くんは、学校でサッカーをやっていたので、
「?? サッカーは学校で練習しました。だから、特にそういうことはありません。」

これは、ダウン症とか障がいがあるから、制限されるんじゃなくて、 私たち誰もが、何かをしようとする時、 それによってリスクがある場合は、制限があると考えられるのでは? 例えば、赤ちゃんや妊婦さんがジェットコースターに乗るとか。 赤ちゃんや妊婦さんは、障がい者でもなければ、病気でもないけれど でも、制限されることは色々あるでしょう

けん太くんのお父さんが登場してお話しをしました。
けん太くんは三人きょうだいで、けん太くんの上に二人の健常な子がいるそうです。
お父さんは、確かに育てる上で、上の二人よりも大変なことは多かったけれど
けん太のおかげで、上の二人は優しい子に育った。
けん太の同級生の親は
けん太くんがいてくれたから、このクラスにはイジメもなかった。と言ってくれた。
そのようなお話しをしてくれました。

最後にスタジオで脳性麻痺のかたが言った言葉がとても心に響きました。

「けん太くんは けん太くんの幸せ
 ボクは ボクの幸せ
 それは
 誰が決めることか
 誰が感じることかと言うと
 あくまでも
 けん太くんが(ボクが)感じることであって
 周りが感じることではない
 だから
 最初から(悲しい)ストーリーを勝手に描かないでほしい」

出生前検査についての外部サイトを貼ります。http://lite-ra.com/2014/07/post-278.html

日本を代表するジャーナリストのひとりである故・斎藤茂男の著書「生命かがやく日のために」を引用して田岡さんというかたがこの記事を書いています。

私がここで言いたいと思っていることを、あまりにも的確に書いていらっしゃるので
田岡さんの文を、コピペします。(途中からですが)

「私たちの社会には、障害を持つ命を抹殺しようとする価値観が、ガン細胞のようにひそかに増殖しはじめているのではないか」。斎藤がこのように書き付けたのは1985年のことだが、その洞察は悲しいことにいま、的中してしまったといえる。
だが、何も出生前診断で中絶を選択した妊婦を責めたいわけではない。考えなくてはいけないのは、「障がいがあれば堕ろせばいい」と社会が後押しするような空気のほうだ。生むことを選んだ親に対し、「不幸になるとわかっているのに、産むのは親のエゴ」「自己責任で産んだのだから、国や社会に頼るな」という空気すら作られつつある。だいたい“劣等人種は抹殺しろ”という考えは、ナチス・ドイツ時代の優生思想にも繋がる危険なものである。そして、カネのかかる障がい児の出生を避けようとするのは、ただの政策思想でしかない。
 何より、私たちの社会は、障がいがある人とそうではない人が触れあう機会が、ほとんど用意されてはいない。国際的には、障がいのある子どもとない子どもがともに学ぶ「インクルーシブ教育」が進んでいるが、日本においてはまだまだ“隔離”されている状態だ。また、メディアを見ても、アメリカでは『セサミストリート』などの子ども番組や「トイザらス」の広告にダウン症の子どもが出てくるし、人気ドラマ『glee/グリー』にも、チア部のメンバーとしてベッキー・ジャクソンというダウン症の女の子が登場している(ベッキー役を演じるローレン・ポッター自身も、ダウン症をもつ女優である)。片や、日本では、報道やドキュメンタリーを除けば、年に1回の『24時間テレビ』で視聴者の涙を誘うように“かわいそうな人”と演出されて障がいがある人たちが紹介されるだけだ。このような状況で、“障がい=負”というイメージだけを一方的に押しつけ、自分の考えにしてはいないだろうか。
 前出の斎藤は、まるで未来を予見したように、このように述べている。
「「現代の社会では障害をもつ子どもはけっして幸せになれないし、親自身も不幸である」という固定概念に縛られた現状認識が根強くはびこっている状況のなかでは、けっきょくは人間が人間の生命を管理・選別していく巨大な流れに巻きこまれていく可能性は大きいのではないだろうか」
「できるだけムダを省き、より効率的で、論理整合性のある合理化体制をめざす志向に突き動かされて、その流れにさからう異端の存在や、役に立たない弱者や劣者を切り捨てながら、不気味な歯車が回転していく危険を、私たちの社会ははらんでいるようだ」
 斎藤の指摘は、さらに加速度を高めて進行している。合理的でないものは排除しよう。異端は拒絶すればいい──障がい者に対してのみならず、こうした排他的な考え方が社会に蔓延っているのが、現在の日本の姿だ。
 そもそも、ダウン症の子どもが一定数生まれることは生物学的には自然なこと。新型出生前診断を受け、中絶を選んだ妊婦の悲しみも、生むことを選んだ家族の困難も“個人の問題”などではなく、社会が背負うべきものではないのか。ダウン症の子どもが生まれても幸せにはなれない。そんなふうに諦めてしまう世の中をつくりあげているのは、ほかでもない、この社会の貧しい体制にある。
(田岡 尼)













NHK Eテレ「バリバラ」ってご存知ですか? [障害者の話し]

障がい者によるバラエティ番組「バリバラ」をご覧になった事はありますか?

私のように我が子が障がい者の場合
たとえぱ本屋さんを歩いていたなら
前のほうの記事でご紹介しました佐々木志穂美さんの「障害児3兄弟と 父さんと母さんの 幸せな20年」のタイトルを見ただけで
ここにはどんな愛があるのかな?
なにか参考になる言葉と出会えるかな?
などなど
期待の気持ちで飛びつきます。

ですから、はじめて「バリバラ」のタイトルをテレビ欄で見たときも
何の抵抗も無いどころか、むしろ、見たい!!と思って飛びつきました。

今でも忘れられないのが、何年か前のお笑い選手権です。
優香とふたりで爆笑しました。
このシリーズは毎年続いています。

多分、障がい者との関わりが薄いかたは、このチャンネルをわざわざ選択しないでしょう。
何かの機会でこの番組を見たなら、きっと戸惑うでしょう。
それがお笑い選手権だったら
真面目なかたは「これ?笑って良いのか?」と、ご自分の倫理観と闘うかもしれません。
また、
嫌悪感をおぼえるかたもいるでしょう。
私が賢治をマスコミに出したり、絵画活動などを積極的に進める中で言われた
「自分の子を見せ物にするのか?」
「障がいを売りにするのか?」
「世間にさらして恥ずかしくないのか?」
こんな言葉を、この番組に対して感じる人もいるでしょう。

私が10/31に見たのは
出生前検査に関してでした。

ダウン症のイケメン、けん太君が街に出て突撃レポート
「ダウン症の赤ちゃんを産んじゃダメですかね?」

マイクを向けられた人は
ダウン症本人を目の前にして
「産んでも良いと思います」と口を揃えて答えます。

じゃあ、どうしてダウン症の出生前検査をするの?

けん太くんは自分の疑問の答えを求めて歩きます。

この回の再放送が11/5に日付が変わってすぐの午前0:25からあります。
そしてこの回の続き(2)は11/7 金曜の21:00から NHK Eテレです。

是非、録画予約して見て欲しい番組です。


ひとくくりに「障がい」と言っても、それはさまざまです。
ただ、一般的に、健常者は自分が健常者だと意識することもなく、当たり前に日々の社会生活を送っているでしょうが
いざ
障がい者を目にしたり、関わることになった時に
そこに、自分(健常者)とは別 ! の何かがいるように思ってしまうのだと思います。
差別の気持ちが無くても
自分とは違うと思ってしまうのかもしれません。

賢治が生まれて、賢治に
障がいがあるとは知らなかった「時」と、知った「時」
その「時」の区切りで
ああ、私の息子は「障がい者」なんだと
賢治を 別の枠 へと区別する意識など、
当然、私にはありませんでした。
賢治は賢治のままです。

「障がい者」「健常者」のカテゴリーに分ける必要は無いという考えは
この社会では通用しないのかもしれません。
でも、
では、障がい者は隠すべき存在でしょうか?
なぜ? 障がい者ではいけないのでしょうか?

今回、このダウン症の本人達のナマの声を聞いて
多くの人に、何かに気がついて欲しいと思いました。

是非ご覧ください。
再放送が11/5に日付が変わってすぐの午前0:25からあります。
そしてこの回の続き(2)は11/7 金曜の21:00から NHK Eテレです。

バリバラ関係の記事がありましたのでここに貼ります。
http://greenz.jp/2014/02/21/baribara-fukuoka/

人に伝えるために [障害者の話し]

今年も
賢治の絵画展を各マスコミさんがとりあげてくださいました。

これらの絵を描く 渡邊賢治 とは? を
どう伝えるか?
今回の絵画展が持つ意義を
どう伝えるか?

それは毎回、とても考えるところで
賢治の状況や環境は年々変わっていますし
テーマは生きる歩みの中で

一番お伝えしたいことをと考えています。


新聞記者さんは異動が多くて
長くて二年。
このところの個展では、毎回、担当記者さんが変わっています。

そして
読者のかたは
はじめて賢治の絵画展記事をご覧になるかたも多いわけですから
結局
病名、障害の重さ、ちょいとショッキングな余命宣告や心肺停止事件の事などをあげ
「とても大変な状態の中、絵を描いている、難病と闘う画家」
という内容におさまってしまいます。

まぁ
結果はそうであっても
私は毎回、これを伝えたい!!!という思いを持って
取材を受けています。

今年は言葉だけではなく、図を用意しました(=゚ω゚)ノ
メモ程度の走り書きの図です。
でも、記者さんにお話しする時にイメージしていただきやすいと考えました。
ふつうの構図 1 のコピー.jpg

真ん中に( 普通 )というサークルがあるとして
その、ずっと下に、障害者がいる
これが社会でのイメージと仮定します。

普通のサークルの真ん中には、線 があって(図中、黄色線)
そこが普通の並
線より上が、普通の上( じょう )
そして逆が、普通の下( げ )
ふつうの枠からは外れたくない
ふつうから外れる事はこわい
でも
ふつうの並より上へ行きたい
そんな欲のために、
人と比べて自分をはかる人が多いという現実があります。

みんな、それぞれの価値観で
私は〜だから、社会ではちゃんと『普通』に入っていて、みんなと違わなくて安心。
だけど私は◯◯だから
普通の中でも上
いえいえ、ある意味、普通のサークルを抜けて上( じょう )よ

プライドを高くお持ちの方もいれば

どうせ私は◯◯だから下だわ。この、障害者の枠に近いくらいよ
と自分を卑下する方もいるでしょう。

そもそも ふつうの枠とは何でしょう?
ふつう の線引きとは、具体的にどこからでしょう?

障害者の多くは確かに不自由ではありますけれど
社会の多くでイメージされるこの構図は、適切なのでしょうか?

人が生きる中で
何かの生きがいを持ったり、愛を与えたり受けたり、やりたい事を見いだして努力したり、夢を追う事、叶えること、破れても次の夢を求めること
そんな生きる命が求める気持ち(図中、赤線)
これは
例えばふつうの人でも、それ以外の人でも
同じではないでしょうか?

ふつう・・・なんて
本当は存在しない枠
(多分、障害が無い、五体満足とか、家庭環境が一般的かそれ以上とかが基本的な「ふつう」で、それ以外に、たくさんの理屈を付けて、逆に「ふつう」ではない者を作って、なんとなく「ふつう」があるように思っているだけだと思います)

大多数を占める、自分は「ふつう」以上と思うひとたち
少数の、それ以外のひとたち
マイナスイメージのマイノリティ(少数派)は、どんな社会においても決して強くはありません。
差別が生まれますから。

こんな社会

さて、あなたはこの構図をどう思いますか?

賢治は歩行が出来ません。言語がありません。自分で顔を洗うことも、トイレも出来ません。
でも、
生きがいがあります。
愛を持って人と関わり、人からも愛を受けて生活しています。
やりたい事をするには、とても制限があるけれど、自分の出来る範囲でそれを実現しています。
そして、多くのひとへと、夢を与えてくれる力を持っています。

障害者は、そんなに存在位置の低い者でしょうか?

これらを、少しでも多くのかたに考えていただきたくて
今回の取材では、このような図を使って説明をさせて頂きました。

紙面やテレビでは、ここまでテーマを深く掘り下げるのはとても難しくて(勿論、それは承知していました。仕方ないです)みなさまへお伝えできなかったので
ここに載せました。

障害の話しに耳を傾けて [障害者の話し]

先日、楽譜を見に行った本屋さんで
文庫コーナーの棚でこちらを向いていた、この本と目があって[目]
[揺れるハート]一目惚れ[黒ハート]
即、手にして、迷うことなくレジに向かいました。
IMG_2278.JPG

   障害児3兄弟と-父さんと母さんの-幸せな20年


一気に読んでしまいました。
この本の中には、私がいました。(いえ、もちろん、私ではありません)
私の友人たちの姿もありました。(いえ、もちろん、私の友人ではないのですが)
とてもよく似た経験の数々。
多くの人に読んで頂きたいと思う内容でした。

最後の方は、賢治の命の大きさと重なり、涙、涙[もうやだ~(悲しい顔)]

この本を読み終えて
佐々木さんのブログへと行って
彼女のブログを読んで気がついたのは

「うん。そうだよね、
 みんながみんなわかるわけじゃないんだよね。
 でも
 少しでもわかろうと耳を傾ける事をしてほしいよね。
 それは人として。
 そんなの必要ないって言うかもしれないけれど
 自分とは関係ないからとか、関わり合いたくないとか、
 そうやって避けながら、人生を終えるより
 人として生まれたからには
 少しでも、何かを知って、自分の心の引き出しを増やせる方が充実感あるじゃない。
 だから
 私は、たとえバッシングにあっても、こうして発信し続ける[手(グー)]
 だって
 私たちは障害者の親だという事を恥じていない。(恥じる意味がわからない)
 そして
 人の歴史はこれからも続いていくから。
 これからの人たちが、
 みんな、人として、ひとりひとり尊ばれて生きられる社会になってほしい。
 誰もが、互いを認め合える社会ならば
 イジメとか、、、、大きく言うと戦争だって起こらなくなるはず。」


著者の佐々木さんに連絡をとって
ある日のブログ文の引用許可をいただいたので、ほんの少しですがコピペします。

※ 文中の障碍は(しょうがい)です

[ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)]
(前略)
もう 通り過ぎた私にとっては どうってことない障碍児との日々
(きっとね 昔のことは いいことだけ 覚えていて
いやなこと 忘れているんだと思うわ)

これからの人がきいたら

「そんなに大変なのはいやだわ
出産前健診しましょ」

って 思うわよね

そして

もし 染色体異常があったら 中絶しようとか 思っちゃうわよね

それは 人道的におかしいし

障碍児でも 産んでよかったって

感動的なフィルムとか いっぱいあるので

私が 言うまでもないけど

それでも やっぱり

我が子が障碍児であることに耐えられない人はいるわけで

絶対中絶するな なんて 言ったらいけないのかしら とも思う


だけど

そういう 子どもが どうのこうの っていうのを 横においといて・・・

障碍児の親になるって 経験

しようと思ってもなかなかできることではないし

経験が 人をつくっていくのなら

これもまた いいものだけどねえ と 思うのよ

障碍児 うみなはれ

それに 染色体検査したって

うちの三人は どれも ひっかからないわよ

無駄よ

あんな検査


「だからね よく聞け 妊婦のみなさん

もしかして あなたは 障碍児の母になるかもしれないから

そうなったときのための知識をいまからあたえるから

よーくメモをとっておけ

あ、こんなのいやだから 出産前検査で 異常があったら 

中絶すればいいって 思ったわね

無駄だから

全部の障碍わかるわけじゃないんだから」

とか 言ったら

今度は 産むのを やめちゃったりしてね


うんと 小さいときから

障碍の学習をいれておけばいいのよね


三男の小学校時代の同級生たちが 視覚支援を 自然にわかっていたように・・・


あ、でも 中学のいじめっこは

障碍の特性を利用していたわ

次男に 「死ね」などの言葉が 普通の人以上にきついことを

利用して いじめられていたし・・・


知識よりも

障碍が 他人事ではない ということを

強く強く わかってもらったほうがいいのかな



私が 高校時代に 福井達雨氏からきいた

「クラスに一人は 障碍児の母になる」

って 言葉にずっと とらわれていたように・・・


この言葉 ほとんどの同級生の記憶に残っている



でもさ  (でも が 多いな)


看護大学の授業で 障碍児の親の気持ちをはなさせてもらう機会があったのだけど

一番前のずらーーーっと 生徒

寝たから・・・


私の話を聞いているうちに たいくつで ねたのなら ゆるす


まだ 話してないのに

休憩時間漫画読んでいたのに 授業開始で 即つっぷしたから・・・



障碍児の母ではない母集団に 話したときも

あくびしていたの いたから・・・



どう 伝えていったらいいんだろ



ある有名なかたが 流産なさったとき

ダウンちゃんの親が

「きっと 染色体異常で うむのをやめられたのよ

有名なかたこそ 産んで 世の中をかえてほしい」

って 言っていたけど

その言葉には

ちょっと 反発


変えたかったら それぞれが 動かないと・・・



自分の子も 障碍を 負っていたかもしれない


そんな 意識と

弱者へのおもいやりを どうやったら 人が 持ってくれるようになるのか

わからないけど

それは 私たちが もらった宿題



障碍児を産んだとき その後 どう動いたらいいのか

という知識は

全ての 障碍者初心者のお母さんが 受けられるよう

保健所にも もう ちーっと 考えてもらお 

(あ?結局 他人になげるのか?)  

[ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)][ー(長音記号2)]

以上、佐々木さんのブログより

佐々木さんがブログで、日々の出来事、過去の出来事を書く中で
これってどうよ??と感じる、実話を投げかけているように
私も
これってどうよ???を何年も書き続けてきています。

私のこのブログに関して、先日、ある人からの指摘がありました。

「実話を投げかけるのはブログの本来の意義から外れている。
賢治のブログには、絵画展示の紹介や笑顔の賢治を紹介する内容がブログ本来のありかただろう?
そのほうが、みんなからも共感を得られるだろう」

という指摘でした。

いや[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)]あのね・・・

もし、私のブログを読み続けているなら、わかるはずですよね?
賢治の絵画の案内、、、、、年に何回するの???
賢治は。。。。
笑顔の時と
具合が悪くて、
熱がでたり、酸素濃度が下がったり
エクソシストが取り憑いたみたいにハーハー バタバタしたり
、、、、、具合悪い方が多いんだけど。。。。。。

毎日、ちょっとした変化に、ハラハラしながら
何人ものヘルパーさん、医師、看護師、みーーんなで
賢治の体調を細かく観察して、24時間、細心の注意を払っているからこそ
今日まで命をつなげているのだけど。。。。[たらーっ(汗)]

そのハラハラ、ドキドキを、賢治の命があることへの感謝[ぴかぴか(新しい)]に代えて、
みんな笑顔で生活している[かわいい]
みんなの想いの深さには、語りきれない背景があるけれど
笑顔の部分の表面だけを伝えろと言うの??
それで
笑顔の時の賢治だけをここで紹介して
誰に? 何を? 共感してもらえるの?????

人生の中で
障害者を知る引き出し(機会)や経験が無くて
そういう想像ができなくても、それは仕方がないけれど

いくら話しても
耳を傾ける気持ちが無ければ伝わらないんですよ。


いずれにしても
キレイゴト の言葉だけでは生きて行けないのが私たちの現実。

障害者を家族に持たない人たちの幸せは幸せで、それはいい。。。
自分たち家族の幸せを守りたい、それは当然の権利です。

それならそれで良いじゃないですか。
そうしたい(自分の幸せを守りたい)とまっすぐに伝えて守ったら良いと思います。

何も伝えずに表面だけを取り繕った結果を、私たちのせいにしている自覚はありますか?

賢治のような子が生まれたらどうしよう?
なんて、ひどい言葉・・・
私は最初からまっすぐに、その心配は全く無いと…医学的根拠をあげて事実を言い続けていたのに
それは納得できない
とか

賢治の家族と関わることで、
賢治と関係付けられて、誰かに賢治という障害者の存在を知られたら
どうしよう、隠したい、バレたら???困る?????
とか
そんな心配で何年も苦しめられたとか

私たち対して酷い口撃をすることで、
あなたたちの幸せが守られるわけではないでしょう?

こんなことを言っていながらも
「自分たちは障害者を差別なんかしていない」
と言われても

これは、、、、、通じないと思うなぁ、、、、[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)]

人生は長いから
何が起こるか、誰にもわからない。
佐々木さんがブログに書いたように
誰が障害児の親になるか
わからない。

だから
私たちは自分で心を育てて行かなきゃ
親ならば、親が子の心を育ててあげなきゃ
差別意識
なんて持っていたら
小さなつまずきで、コケて起き上がれない子になっちゃう。

自分の子が大事なのは健常児の親も障害児の親も同じ。

人として、「たいせつ」なことを
何歳になっても
学ばなきゃいけないのですよ。

障害者のいる家族のお話 [障害者の話し]

鳥居.jpg


暑い日が続いています。

人生を終えるときに
私はこの人生で何を得たかと自分に問うたなら
私はこう答えたい・・・こう答えられるように生きたい
だから
いつもその思いを持って、今の一日一日を生き進めたい

「私はたくさん人から、たくさんの愛をもらいました。」


賢治はたくさんの方々から愛を受けて今、生きています。
同時に彼は、様々な形で愛を返しています。
人に愛を返すにはどうしたら良いのだろう??と考え込んでしまう私に
賢治は、
難しいことじゃないよ。
と教えてくれます。

「ほんの気持ちです」なんて言って(笑)お金で贈り物を買う事も無く
そもそも
「ありがとう」の言語を持たない賢治が
自然に人に愛を返す姿とは
ただ
自然に生きているその姿なんです。

好きな人たちと一緒に生活して
具合が悪ければぐったりするけれど
介抱してもらって楽になると笑顔が戻り
おいしいものを食べては笑顔☆笑顔
苦手な食材は、さりげなく、べろーっと口から流して
「こら、賢ちゃん、体に良いんだから、食べなさい」
と言われて
あ、バレちゃってる。。。。ごくん
そんな茶目っ気たっぷりの日常
一晩中眠れない日や泣き続ける夜もあれば
ぐっすり眠って、、、あれ??生きてる??(笑) 息してる??
なんて
心配するほど眠る日もあり

そこには
人として生きる強い意志だけが明確にあって
人生を振り返った時に、それがどれほど大切かはわからないこと(と私は思う)富、名誉、地位
それを得たり維持するために生まれてしまうマイナスの感情、見栄、嫉妬、猜疑心、傲慢などの悪意は賢治には全くない

そこにあるのは
生きることへの努力
生きることを喜ぶ自然体
人と人の交わりの中で生きる人間にとって
自分が自然体にあることが
また
人を自然体にしてくれて
愛が循環して行く

私は自分の人生で
これを
障害者である息子から教えてもらえる幸せ者です。


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