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優しく生きたい。 [他愛のないまったりとした話]

久しぶりに長文です。
お時間のある時に読んでください[るんるん]

年末、長い風邪で休んでいた中、ふと感じた事からはじまって
色々書きます。


たとえば、子育て中のお母さん。

自分が風邪をひいても
育児や家事を休めるわけではなく
まぁ、年が若いと無理が効いちゃうので
下手をすると病院にも行かないまま
家にある市販のお薬を飲んで、
「あら、何となく良くなったわ[わーい(嬉しい顔)]」みたいな感じで
がっちり休む[手(グー)]なんて事をしないかたが多いのでは??


がっちり休んでも、なかなか治らない52歳の私は
年相応??の回復力かもしれないけれど
きっと、気持にも[黒ハート]余裕が出来たんだなぁ〜と思います[ぴかぴか(新しい)]

これまで長い間、私の役目のひとつだった賢治の看護、介護。
その役目は、
振り返ると、これまでの私の生きがいでもありました。

誰かに頼りにされるとか、誰かの役に立てるのは
実は嬉しい事です。
きっと、人って、
そういう事が、知らず知らずに生きがいになっている部分があると思います。

でももし
あまりにも忙しい日々が続いて、精神や肉体がきつくなってしまうと
そんな素朴な嬉しさを忘れて
辛い。。。
と思ってしまうのかもしれません。

こうして今
自分の体を労れるようになる時が来るとは、
私自身、ほんの二年前には想像していなかった事です。

風邪の治りが遅いことで
こんな、自分の気持の余裕を感じるなんて、それこそ余裕ですね。[わーい(嬉しい顔)]
そして
これまでの、私の生きがいは、
私を幸せにしてくれていたこと、
今はかたちを変えて、
私が何歳になっても親として、人として、
これから先の人生を歩む楽しみや喜びを与えてくれていること、
それに心から感謝[ぴかぴか(新しい)]しています。

六年前のブログ記事からの一文をコピペします。
[かわいい][かわいい][かわいい]「誰かの犠牲のもとに 本当の意味で誰も幸せにはなれない」と優香が私に言ったのは彼女が中学生のころ
彼女の発言は時々哲学的ですが いつもマトを射ています
そのたびに私は
「私は何の犠牲にもなっていない。私の幸せは優香と賢治の幸せ」
本心から この言葉を繰り返していました。[かわいい][かわいい][かわいい]

このブログを書いた六年前は
まだまだ大変忙しい時でした。
自分が休むことは忘れて
毎日「自分の仕事」に向かっていました。

「自分の仕事」 とは
ピアノ指導の仕事、家事、看護、介護、家族の諸々の用事などです。
そして、それらのほとんどが私の生きがいでした。

とても忙しかったけれど、
これは自分にしか出来ないもの[手(チョキ)]と思っている仕事には生きがいを感じました。
そんなに大きな事ではないんです。
自分の子に母として関わるのは自分にしかできない、とか
私として両親へ何かをするのは、私しかできない、とか
そういう事です。

誰もが
この世に存在していること自体、唯一自分にしかできないことです。
ですから
自分にしかできないことを「やっている」と自分で意識するのは、
誰もが出来ることであり、また、とても意義のあることです。

生きるとは、自分の意志のもと、でもあります。
周りに生かされながら、また多くの「幸運」によって、健康な体を授かり、守られ、命をつなげられ、
そして自分の意思で生きています。
もし
生きる中で何か辛い事があれば
その辛さから離れるのも、離れずにとどまるのも
結局は自分の判断だと思うのです。
つまり
何かの事情があるから、、、、だから自分は
この辛さから離れるわけには行かない!!と判断するのは、
事情のせいじゃない、自分の意思だと思います。
誰かを保護するためとか、義務とか、世間体とか
事情は色々あるでしょうが
脅され、無理強いされない以上は
自分の意志だと思うのが私の考えです。

だからやっぱり
私にとっては大変な事も多いこれまでの道のりだったけれど
「私は何の犠牲にもなってはいない」
そう、優香に話してきたように、
いつも自分の意志で道を選んで生きている
と思えていたのだと思います。

自己犠牲、犠牲的精神について考える時、
私はモノクロのワンシーンが浮かびます(笑)
戦時中、
皆がひもじい思いをしていて、
食べ物が手に入った時
「お母さんはお腹が空いていないから食べなさい」と
自分の分を差し出す

この
お母さんの犠牲的精神の核は「愛」だと思います。

ただ、ただ
純粋な愛情から生まれた行為
この自己犠牲の愛は相手の愛を生み(相手に愛を汲む心があれば)
愛の連鎖になると思います。

人が生きるって
いくつになっても
袖振り合うご縁の中で
育て、育てられているものだから
愛を持って歩くと自然に愛が増えて、
もし、憎しみを持って歩くと
残念ながら憎しみが増えるように思います。

そして、生きるって
愛などの「感情」と
それとは対義する「理性」の
両方を試される連続のような気がします。

悲しい、辛い、そんなやりきれない感情を抱えた時、
感情的に怒りを放ったり、何かのせいにしたり、誰かを恨んだり憎んだり
そんな負の感情ばかりを持ったところで、
これは何の解決にもなりません。

理性的に平和な解決方法をイメージすると言ったらよいでしょうか。
こうしたら、こうなるだろうから、
そうなるように
今はこうして解決に向かいそうな、この一手を打とう[手(パー)]
些細な問題でも、時にはコドモに、この思考の↑流れを説明して、
コドモの問題、オトナの問題を解いて行く方法が良いのでは?と私は考えています。
コドモとは我が子だけではありません。

なぜ理性的に考えた方が良いと思うか?というと
私は自分に自信がないからです。
感情に流されずに他者の気持を考えるところから入らねば、
自分の気持が正しいのか判断するのが難しいのです。

自分に自信がない人はたくさんいると思います。

私の場合
とても封建的な考えの強い明治生まれの祖父が家長の渡邊家に生まれました。
今の時代では信じられないような
"無用の存在"の扱いを受けてきました。
でも私は
お屋根のある所に住み、ご飯を食べられて、学校へ行けるだけで
幸せ[揺れるハート]と感じる呑気な子でした。

呑気にオトナになった私は
ちゃんと考えなければいけない「親」になりました。
何かあると
相手の気持を考えるようになりました。
自分の中にふたつの人格を同時に置きます。
それは自分ではない他を受容した上で、それがどんな気持なのかを一生懸命に考えることです。

気がつくと私は、考えて、考えて、考えすぎるほど考える性質になっていました。
でも、もともとが、安直に自責へと進んで解決してしまう性質でしたので、
考える癖をつけてから、やっと自分を守ることが出来るようになったと言えます。
そしてその結果は、
やっと、自分のことを自分で受け入れられるようになりました。
判断の元になる価値観は私のものではありますが
私のこれまでの経験から得た価値観は、そうそう非情なものではないと自信を持てるようになりました。
私は無用な存在ではないと、心から思えるようになりました。


自分に自信満々の人なんて
そう多くはないのでしょう。

みんな、みんな、それぞれ一生懸命に生きているのだと思います。
だから
みんなが優しい気持で生きられると良いなと思います。

私はこれからの人生を優しい気持で生きたいです。
自分を卑下することもなく。
誰かを憎むこともなく。
自分のこれまでの人生は自分で責任を持って
誰のせいでもない
だからこそ、
自分のための人生なのだ!!と思うと
優しくなれる気がします。