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バリバラ その2 [障害者の話し]

前の日記でご紹介した
NHK.Eテレの「バリバラ」
先日
「出生前検査について考える」パート2が放送されました。

パート1と同じく、ダウン症のイケメン、あべけん太くんが
大阪大学へ行って、学生たちを前に疑問を投げかけて意見を聞きました。

   去年四月に始まった検査で判定されるものにダウン症が含まれています。
   ただし、これは胎児がダウン症であると確定されるものではなく
   さらに羊水検査などの検査をして
   はじめて確定出来るものです。

この出生前検査がはじまってたった半年で
確定した妊婦の97%が中絶しています。

97%はすごい数字です。

こういう現実があると、けん太くんが疑問を持つ気持が理解しやすいと思います。
「ダウン症が社会から外されるのはイヤだな。どうして検査をするのかな?」


「この検査はダウン症の人たちへの差別ではありませんか?」と
けん太くんは学生達に問いかけます。

学生達の意見を聞いていて、私が感じたのは

「これは差別ではありませんか?」の問いなのに
無意識の差別観の上での意見が多かったことです。
でも
本人達はその、差別観に気が付いていないのです。

「親亡き後、ダウン症の子を残すことを考えると、現実的に無理と判断するために、出生前検査は必要。」

ダウン症(障がいのある子)は、親がいなければ生きられないのでしょうか? 

「どこにでも差別はある。(差別を)消す事は出来ない。ダウン症を中絶するのは、差別ではなく、親の権限」

完全に差別ありきで語っていますね。

「ダウン症の子が親から虐待されたりしている。健常の他のきょうだいには愛情を注げても、ダウン症の子は愛せないなど、そういう悲し子が生まれないためにこの検査があるんじゃないか」

それは健常の子でも、日々、虐待のニュースを聞くではありませんか。ダウン症の子を持つ親が、とても愛情を持って育てている現実はたくさんあるし、なぜ? 障がいがある子は悲しい子になるとイメージしてしまうのかなぁ?

また、けん太くんが
「この検査を導入するにあたり、自分たちダウン症当事者に何も意見を聞いてはいない事をどう思うか?」
と、問いかけると

「ダウン症の当事者が、世の中に自分と同じダウン症の子が生まれてきてほしいという意見を持っていても、その意見が妥当なものかどうか、社会が判断出来ないので、意見として聞き入れられない」

障がい者という少数派の意見を社会は聞かない。マイナスイメージのマイノリティーは社会的弱者だと、前に私が記事に書いたことは、やはり一般社会で、当たり前に多くの人が感じている事なのですね。これを「差別」以外に何というのでしょう?

またけん太くんは
「ダウン症の人とそうではない人に本質的な違いはありますか?」と問いました。
けん太くんは、何が違うのかわからない、違いは無いという意見です。

ここでも
障がい者に対する先入観を持っての意見が学生の口からでました。

「たとえば今からサッカーをすると言ったら、私たちは出来るけれど、ダウン症の親は心配してさせられない。先生や周りからの抑えがかかる。それが私たちとダウン症の違い」

小中学校を普通学級で学んだ、けん太くんは、学校でサッカーをやっていたので、
「?? サッカーは学校で練習しました。だから、特にそういうことはありません。」

これは、ダウン症とか障がいがあるから、制限されるんじゃなくて、 私たち誰もが、何かをしようとする時、 それによってリスクがある場合は、制限があると考えられるのでは? 例えば、赤ちゃんや妊婦さんがジェットコースターに乗るとか。 赤ちゃんや妊婦さんは、障がい者でもなければ、病気でもないけれど でも、制限されることは色々あるでしょう

けん太くんのお父さんが登場してお話しをしました。
けん太くんは三人きょうだいで、けん太くんの上に二人の健常な子がいるそうです。
お父さんは、確かに育てる上で、上の二人よりも大変なことは多かったけれど
けん太のおかげで、上の二人は優しい子に育った。
けん太の同級生の親は
けん太くんがいてくれたから、このクラスにはイジメもなかった。と言ってくれた。
そのようなお話しをしてくれました。

最後にスタジオで脳性麻痺のかたが言った言葉がとても心に響きました。

「けん太くんは けん太くんの幸せ
 ボクは ボクの幸せ
 それは
 誰が決めることか
 誰が感じることかと言うと
 あくまでも
 けん太くんが(ボクが)感じることであって
 周りが感じることではない
 だから
 最初から(悲しい)ストーリーを勝手に描かないでほしい」

出生前検査についての外部サイトを貼ります。http://lite-ra.com/2014/07/post-278.html

日本を代表するジャーナリストのひとりである故・斎藤茂男の著書「生命かがやく日のために」を引用して田岡さんというかたがこの記事を書いています。

私がここで言いたいと思っていることを、あまりにも的確に書いていらっしゃるので
田岡さんの文を、コピペします。(途中からですが)

「私たちの社会には、障害を持つ命を抹殺しようとする価値観が、ガン細胞のようにひそかに増殖しはじめているのではないか」。斎藤がこのように書き付けたのは1985年のことだが、その洞察は悲しいことにいま、的中してしまったといえる。
だが、何も出生前診断で中絶を選択した妊婦を責めたいわけではない。考えなくてはいけないのは、「障がいがあれば堕ろせばいい」と社会が後押しするような空気のほうだ。生むことを選んだ親に対し、「不幸になるとわかっているのに、産むのは親のエゴ」「自己責任で産んだのだから、国や社会に頼るな」という空気すら作られつつある。だいたい“劣等人種は抹殺しろ”という考えは、ナチス・ドイツ時代の優生思想にも繋がる危険なものである。そして、カネのかかる障がい児の出生を避けようとするのは、ただの政策思想でしかない。
 何より、私たちの社会は、障がいがある人とそうではない人が触れあう機会が、ほとんど用意されてはいない。国際的には、障がいのある子どもとない子どもがともに学ぶ「インクルーシブ教育」が進んでいるが、日本においてはまだまだ“隔離”されている状態だ。また、メディアを見ても、アメリカでは『セサミストリート』などの子ども番組や「トイザらス」の広告にダウン症の子どもが出てくるし、人気ドラマ『glee/グリー』にも、チア部のメンバーとしてベッキー・ジャクソンというダウン症の女の子が登場している(ベッキー役を演じるローレン・ポッター自身も、ダウン症をもつ女優である)。片や、日本では、報道やドキュメンタリーを除けば、年に1回の『24時間テレビ』で視聴者の涙を誘うように“かわいそうな人”と演出されて障がいがある人たちが紹介されるだけだ。このような状況で、“障がい=負”というイメージだけを一方的に押しつけ、自分の考えにしてはいないだろうか。
 前出の斎藤は、まるで未来を予見したように、このように述べている。
「「現代の社会では障害をもつ子どもはけっして幸せになれないし、親自身も不幸である」という固定概念に縛られた現状認識が根強くはびこっている状況のなかでは、けっきょくは人間が人間の生命を管理・選別していく巨大な流れに巻きこまれていく可能性は大きいのではないだろうか」
「できるだけムダを省き、より効率的で、論理整合性のある合理化体制をめざす志向に突き動かされて、その流れにさからう異端の存在や、役に立たない弱者や劣者を切り捨てながら、不気味な歯車が回転していく危険を、私たちの社会ははらんでいるようだ」
 斎藤の指摘は、さらに加速度を高めて進行している。合理的でないものは排除しよう。異端は拒絶すればいい──障がい者に対してのみならず、こうした排他的な考え方が社会に蔓延っているのが、現在の日本の姿だ。
 そもそも、ダウン症の子どもが一定数生まれることは生物学的には自然なこと。新型出生前診断を受け、中絶を選んだ妊婦の悲しみも、生むことを選んだ家族の困難も“個人の問題”などではなく、社会が背負うべきものではないのか。ダウン症の子どもが生まれても幸せにはなれない。そんなふうに諦めてしまう世の中をつくりあげているのは、ほかでもない、この社会の貧しい体制にある。
(田岡 尼)