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賢治のブログらしく(その2)☆プロフィール☆ [絵画]

わたなべ  けんじ

渡邊賢治

1990年札幌市生れ
札幌市在住

江別中央小学校卒業、
北海道真駒内養護学校中等部、高等部卒業。
6歳の時、*ムコ多糖症ハンター症候群Ⅱ型と判明する。
姉の優香がドナーとなり骨髄移植を受けて深刻な病状の進行は止まるが、重い障がいは残った。
10歳から絵を描き始める。
現在、在宅介護生活で、身辺全介助、酸素管理の中、絵画制作に励み続けている。
2004年北海道水彩画展にて奨励賞受賞。
2005年北海道肢体不自由児者福祉連合協会主催作品コンクールにて北海道知事賞受賞。
2002年から現在まで、北海道をはじめとして、東京、愛媛、ロンドン、シドニーなどで絵画を展示。
2003年からはじめた個展「Kenjiぼくのうた」の開催は2016年に10回目を開催した。
「いけまぜアトリエ」の一員として、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のカレンダーなどに絵が採用されている。

 

陽気で優しくておしゃべりで歌と電車とアスレチックジムといたずらが大好きな男の子、賢治の体や知能に、徐々に症状が現れたのは3歳を過ぎた頃からです。
何年も病院を廻り6歳で*「ムコ多糖症ハンター症候群Ⅱ型」という難病と判明しました。
この病気は体内の酵素がたった1つ欠けているために分解できない老廃物が脳や内臓、骨などの全身にたまり障害が現れて死に至る進行性の病気で、当時は治療法も薬もありませんでした。
ただ研究段階ながら、唯一進行を止める手段に『骨髄移植』がありました。
賢治は幸運なことに姉の優香と骨髄の型が一致したため平成
9年7歳の時に札幌医大病院で骨髄移植をしました。
この病気では北海道で初めての移植でした。

辛い治療のストレスからなのか、それとも病気がいっきに進行してしまったのか、長い入院生活と自宅療養を終えた頃、賢治からは『歌』も『言葉』も消えていました。食事や排泄も、もう自分では出来ません。
今、発達年齢判定は0歳11ヶ月です。
でも、骨髄移植は成功しました。
賢治の体の中で、姉の血が生き始めて、欠けていた酵素を作り出してくれました。
内臓の腫れも治まりました。
皮膚や関節もずいぶん柔らかくなりました。
脳の萎縮も止まりました。
もう、病気の進行に怯えることはありません。
失ったものもたくさんありますが、賢治には最大の宝、命と笑顔、が残りました。
賢治は10歳の頃から絵を描きはじめました。
きっかけは、手にした物を何でも放り投げる癖を生かして絵筆を持たせたことです。
どこへ飛ぶかわからない筆が、和紙の上で重なり逢って生まれ出る賢治の色。
偶然が成す筆跡、線、空間。その意図の無い絵は不思議にも心を揺さぶられるものでした。
こうして始まった筆投げ遊びの絵画制作は、次第に賢治の意欲で広がりを見せるようになりました。
好きな色を自分で選んでは、
力強く何度も筆を叩きつけたり手の平や指先を使って絵の具を塗り、
また、
和紙などを絵の中で転がしたりキラキラの粉を撒く。
自分の世界をどんどんと広げるとともに、
賢治は絵を描く作業に、自身の喜びと誇りを感じるようになったようです。
その集中力は決して生後11ヶ月の赤ちゃんではありません。
真剣な目の輝きと、こぼれる笑顔はまさしく年齢どおりの青年のものです。

渡邊 賢治~Kenji~の絵は、まるで何かの使命を果たすかのように、
彼の『歌』と『言葉』を発しています


「人は皆、生かされて生きている」と 
幼い身で教えてくれた彼のその絵は
人の痛みを聞き、
優しくうけとめ、喜びを聞き、希望をしるし、夢を照らし、
観てくださる あなた と会話しているのです。

 

追記
二十歳を目前に、賢治の新たな病気が見つかりました。
気管が骨や内蔵に押しつぶされて
彼の気管の二カ所が、2ミリ×4ミリという 非常に細くて危険な状態と知りました。
19歳のそれを知った日から今
今もその危険な状況に変わりはありませんが
余命5分と宣告された彼は今日も元気に生き、活き活きと活動しています。
人の生命のすばらしさを ここでもまた学ばされる私です。
2013年 追記

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